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徳島地方裁判所 昭和44年(ワ)379号 判決

原告

石井政夫

石井繁子

右両名訴訟代理人

三木大一郎

被告

井上健二

右訴訟代理人

米田泰邦

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一、原告ら

被告は原告政夫に対し金一、六七五、八五〇円、原告繁子に対し金一、五〇二、九五七円ならびに右各金員に対する昭和四四年一〇月八日より各完済に至るまで年五分の割合による各金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言。

二、被告

主文同旨。

第二  原告らの請求原因

一、事故の発生

原告ら夫婦の長女である石井義子(昭和二五年一月一日生)は昭和四一年一〇月一二日午後八時頃大阪府守口市文園町一番地所在の関西医科大学附属病院(以下「関西医大病院」という)において死亡したが、その死に至る経過は次のとおりであつた。

(一)  義子は昭和四一年三月徳島県美馬郡半田町所在の八千代中学校を卒業し、直ちに大阪府門真市所在の株式会社エフワン門真工場ヘミシン工として就職し、寮生活をしながら勤務していた。

(二)  ところが、義子は同年七月二二日腹痛を訴え、翌二三日大阪府守口市所在の野川病院で野川徳二医師の診察を受けたところ、便秘症であろうと診断されたが、その後も腹痛が止まらず、翌七月二四日再度野川病院へ行き診察を乞うたところ、野川徳二医師が交通事故患者の手術中であつたため、同医師の紹介で同業の医師である被告(井上診療所)を訪ね、その診察を受け、虫垂炎と診断され、当日手術を受け、引続き被告方に入院治療を受けた。

しかし、義子は手術後の経過がはかばかしくなく、衰弱する一方で、原告政夫が同年七月三一日病室に入院している義子を訪ねたときには、言葉を発する気力もなく手をさしのべるのがやつとであり、腹部は極度に膨張し、敷布団が一面ずぶ濡れのような状態であつた。そこで、原告政夫は布団を買入れるなど看護につとめたが、病勢は悪化の一途をたどつた。また、原告政夫が被告に病状をただしても、被告は義子の腹に入れているゴム管から水が出なくなると治るというのみであつた。

(三)  原告政夫はこのまま被告の治療を受けていては義子の生命が危ないと考え、同年八月三日義子を前記野川病院に転入院させ、野川徳二医師の診察を受けさせたところ、回盲部手術創開し、腸内容が多量漏出して腸瘻を形成しており、直ちに再手術の必要があるが、衰弱がはなはだしいため体力の回復を待つてすべきであると診断された。その際、同医師は被告の手術および手術後の処置の疎漏さに驚いていた程で、被告の手術が失敗しているので生命の保証はしかねるとの意見であつた。かくして、義子は同病院で抗生物質投与等による治療により体力の回復を待つていた。

(四)  ところが、右野川医師が胆石症のため関西医大病院に入院したため、義子は同年八月三〇日同医師の紹介で前記関西医大病院に転入院し、医師武田惇の診察を受けたところ、腹部の回盲部(内臓部)に長径約五センチメートル、短径約三センチメートルの創があり、瘻孔状を呈し、同部より腸内容と乳白色の膿汁流出が認められ、創縁には膿苔が付着し、全身状態が極めて不良で脱水状態を呈していると診断され、同病院においても抗生物質投与、人血清蛋白の補液等を行なつてもらい体力の回復を図つていたが、同年一〇月六日武田医師から義子の衰弱が漸増する兆があるということで瘻孔からの腸内容流出防止、膿汁流出減少を図るために回腸横行結腸吻合術を受けた。しかし、結局、その効もなく、義子は同年一〇月一二日死亡した。

二、被告の責任

義子の死亡は、前記経過からして、被告の手術が粗雑で義子の回腸部を傷つけたか、あるいは自然に回腸部が開したとしてもその後腸内容が腹部に残留しないよう手術後の措置を講ずべきであるのに被告がその措置をとらなかつた過失に起因することが明らかである。従つて、被告は不法行為者として民法七〇九条により義子の死亡事故によつて生じた損害を賠償する義務がある。

三、損害

(一)  原告政夫の蒙つた損害

1 治療費

イ、野川病院 一七、〇七〇円

ロ、関西医大病院 六六、九五〇円

2 葬祭料 三八、八七三円

3 雑費、交通費  五万円

(二)  亡義子の蒙つた損害で、原告らが相続したもの

1 逸失利益

義子は本件事故当時エフワン門真工場にミシン工として勤務し、その給料実支給額は

昭和四一年四月分 九、一二一円

同年五月分 八、六八一円

同年六月分 九、一二四円

で、一カ月平均八、九七五円となり、右支給額は食費等を控除されているので、衣類、小使い等の生活費を月額三、〇〇〇円としても一カ月の生活費控除後の純収入は五、九七五円で、年額七一、七〇〇円となる。義子は死亡当時満一六才であつたから、もし本件事故がなかつたならその平均余命の範囲内で満六三才までの四七年間はミシン工として就労可能であつたはずであるから、その間前記所得がその後増加しないとしてもこれをホフマン式計算法により事故当時における一時払の現価総額に引き直すと、義子の逸失利益は一、〇〇五、九一五円となる。

2 慰藉料

義子はこれからが人生の華となるべきところ若くして死亡したので、その他諸般の事情を考慮すると、義子自身の慰藉料は一〇〇万円が相当である。

3 相続

原告らは義子の実親であるからそれぞれ以上合計二、〇〇五、九一五円の損害賠償請求権の二分の一すなわち一、〇〇二、九五七円宛を相続した。

(三)  原告ら固有の慰藉料

原告らは義子を手塩にかけ育て、ようやく一人前にさせた矢先に義子を失つたもので、その他諸般の事情をも勘案すると、原告らが被害者義子の父母として請求できる固有の慰藉料は各五〇万円が相当である。

四、結論

よつて、被告に対し、原告政夫は一、六七五、八五〇円、原告繁子は一、五〇二、九五七円の各損害金および右各金員に対する訴状送達の日の翌日たる昭和四四年一〇月一八日以降各完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第三  被告の答弁

一、原告らの主張に対する認否

原告ら主張の請求原因第一項は以下の主張に反する事実については争う。同二項の事実は否認する。同三項の事実中、義子が昭和二五年一月一日に生まれ、エフワン門真工場に勤務していたことは認めるが、その余の事実は不知。

二、被告の主張

被告がした最初の手術等における義子の症状は、急速に悪化した化膿性あるいは壊疽性のいわゆる悪性の虫垂炎で、被告の手術および抗生物質の投与、労養補給等の治療は全く適切なもので、被告には何らの過失はない。その間の経過は次のとおりである。すなわち、

(一)  被告は昭和四一年七月二四日午前一〇時頃同僚に付添われて来た義子の様子に重患を思わせるものがあつたので、当日は日曜で休診日であつたが診察に応じ、まず問診をしたところ、義子は、「前々日である二二日夜から腹痛があり、野川医院を訪ねたら便秘であると言われ、また、二三日には影浦医師から病名不明とも言われた。同日はむかつきがあり、何も食べていない。」と訴えた。診察時の体温は37.5度で、触診をすると、回盲部に圧痛があり、筋性防禦とも著明で硬結が認められ、血液検査の結果は白血球が一六、〇〇〇以上あつた。そこで、被告は少なくとも病気は虫垂炎であり、緊急を要すると判断し、同日午前一〇時三〇分頃直ちに義子を入院させた。被告はその後、すぐに義子の血圧、尿検査をした結果、手術が可能だつたので、緊急に準備を整え、同日午後零時過ぎ手術にかかり、義子の腹を開いたところ、盲腸の周囲に膿瘍ができ、その辺りの腹水が膿のため溷濁し、大網膜、腸管の癒着(側、後腹壁との癒着もあつた)が著しく、壊疽状を呈しており、虫様突起は癒着した腸管に隠れて発見できなかつたので、それ以上捜すのをやめ、そのままとし、排膿のためゴム管を二本入れて手術を終つた。結局、当時の診断によれば、義子の正確な病名は「盲腸周囲膿瘍」であつたのであり、本件のように壊疽状の癒着がある場合、癒着を剥がして虫様突起を探すことは剥がす段階で腸管組織を傷つけ、よつて直ちに腸管の穿孔(糞瘻)を作ることになるので抗生物質等の投薬によつて腹膜炎や腸管穿孔への進行を防止し、膿瘍の治癒を待つほかなかつた。

被告は、原告らが主張するように、手術時腸管を傷つけたようなことは全くない。

(二)  そこで、被告は、その後症状の悪化(特に腹膜炎)防止のため抗生物質、血液代用剤補液、リンゲル等の投与を続けながら義子の軽快を待つたが、同月二八日夕方になつて、前々日から当日の朝まで認められていた腸運動が止まり、上腹部が張り、広範な腹膜炎の症状を呈してきたので、急拠義子の手術創を再開すると、ガスとともに腸内容が排出された。ここに至り、義子が「汎発性腹膜炎、糞瘻」を起したことが明らかとなつた。このように悪化した原因は、結局義子の膿瘍があらゆる投薬措置によつても穿孔性腹膜炎、糞瘻への進行を防止しきれない程、悪性のものであつたというほかはない。その後は抗生物質投与、栄養補給等により腹膜炎を限局性にしたうえで軽快させ、全身状態の回復を待つて糞瘻をなくすため、のちに関西医大病院で行なつたような腸管吻合手術を行なうほか方法はなく、被告もそのための治療行為を行なつていた。

(三)  義子は結局死亡したが、これは義子が被告のもとへ来るまでに病状が悪化していて、虫垂炎が壊疽性、穿孔性という激症のものであつたこと、及び義子の抵抗力が弱かつたこと(一般に疾病治療につき医療自体の効果は極めて限定されており、患者自身の体力・自然治癒力の果す役割が重大であることを指摘したい。特に、本件では、不幸にも、義子は幼少から長期期結核の療養した事実があり、ひ弱で抵抗力劣弱であつたことが裏付けられる関西医大病院でも化膿菌の耐性が強かつたのであり、これも義子の疾病の重篤さ、これに対する医療手段の効果が、ことのほか限局されていたことを示していると思われる)等の結果であつて、その後の推移は現代医学の水準ではいかんともしがたいのである。

(四)  以上のように被告の手術や治療は適切な措置で、原告主張のように野川医師が被告の手術および術後措置の粗雑さに驚いたはずもないし、そのような非常識なことを言うはずもない。

また、義子が被告のもとから野川病院に転入院したのは祈祷師である原告政夫が義子に付添つて看病している際、義子の腹をもむなど甚だ非常識な行為をして被告に厳しく叱責されたこと等もあつて、方角が悪いからといつて転医したものである。

第四  証拠〈略〉

理由

一、エフワン門真工場にミシン工として勤務していた原告らの長女石井義子(昭和二五年一月一日生)が昭和四一年一〇月一二日関西医大病院で死亡したことは当事者間に争いがない。

二、原告らは、右義子の不慮の死は被告の手術ないし治療の際の過失による旨主張するから、まず右死亡事故発生前後の経緯等について検討する。

事故発生状況に関し当事者間に争いない点と〈証拠〉を総合すると次の事実が認められる。すなわち、

(一)  義子は昭和四一年七月二二日ミシン工として会社の仕事に従事中、同日午後三時の休み時間頃から腹痛を訴え、翌二三日になつても腹痛がとまらないので、野川病院に行き、担当の内科の福田医師の診察を受けたところ、のどの痛みもあつたがこれは大したことはなく、下腹部(主として左にかけて)を少し押えると痛みがあつたが、嘔気嘔吐は大したことはなく、当時の体温は36.9度であり、これらの諸症状から一応「大腸炎」であると診断され、経過を見るべきものとされ、ぶどう糖と複合ブスコバン(鎮痛剤)の注射を受け、健胃剤(仮性マグネシアー緩下剤―を含む)三日分を与えられた。しかし、義子はその後も腹痛がおさまらないで、同日夜には近くの影浦医師の往診を受けたが、そのさいも虫垂炎との診断はなかつた(証人斎藤千津子の証言によれば「便秘であると診断され、浣腸薬を取りに来て飲ませるようにと指示された。」と証言しているが、義子がこれを服用したかどうかは不明。なお、乙第一号証によれば、義子は、同医師は病名不明と診たと思つていたことが窺われるが、その間の事情も不明である)。

(二)  しかし、それでもなお、義子は痛みがおさまらないので、翌七月二四日の朝同僚二名に付き添われて野川病院へ行つたが、野川医師が交通事故患者の治療に当つていて時間がかかるということで同医師から同業の医師である被告を紹介してもらい、同日午前一〇時頃被告の診察を受けた。被告は、義子から「二二日夜より腹痛があり、二三日は何も食べず、今日は悪心がある。」との訴えを聞き、診察すると、体温が37.5度、右下腹部(回盲部)に圧痛があり、筋性防禦も著明で、硬結(ブルンベルグ氏症状)があり、白血球も一六、〇〇〇以上を算えることがわかり、これらの諸症状から少なくとも急性虫垂炎であることにはまちがいないと診断し、直ちに義子を入院させ、手術が可能であることを確かめ、手術の準備を整えたうえ、初診後約二時間経つた同日正午過ぎ頃手術にかかり、開腹したところ、すでに盲腸の周囲に膿瘍ができ、大網膜、腸管の癒着が著しく、壊疽状を呈しており、大網膜の下に手を突込み、虫垂突起を捜したが、虫垂突起は癒着した腸管に隠れて指頭に触れず、腹水は白だくしている状態で、これ以上組織にさわると傷をつけるおそれがあり、よつて、虫垂突起の摘出を断念し、そのままとし、排膿の目的でドレーン(排膿管)二本を局所腹腔内に挿入し一応手術創を閉じ手術を終え、手術後、汎発性腹膜炎を起さないようにするため、ストレプトマイシン、プラスゲン、マイシリン、ペニシリンなどの抗生物質の投与、点滴をする一方、ブドウ糖リンゲル液分およびビタミン栄養分の補給に努めたが、手術後の三日間はなお体温が三九ないし四〇度という高熱を持続し、一時は腸雑音を感じ、腸運動が起つてきている兆がみえたものの全体として病勢は回復せず、手術後四日目の七月二八日になり腸管麻痺、汎発性腹膜炎の徴候が出たので同日午後七時頃再度開腹したところ、膿瘍破綻、腸管融解(腸瘻)をきたしており、糞便を混じた膿液が貯留しており、左側にわたる汎発性腹膜炎の所見を呈していたので、更にその方向にドレーン(排膿管)を挿入し、膿汁液の排出を図つた。被告の上記二回の術操作につき、特段の失敗はなく、原告ら主張のような術による腸穿孔などは認められない。被告はその後も引続き義子に抗生物質を投与し、栄養分補給に努めるなど治療に全力を尽したが、義子はほぼ同程度の汎発性(腐敗化膿性)腹膜炎の状態を継続し、第一回の手術創部からも糞便を含む汚汁が漏出し(糞瘻)、体温は三八ないし三九度程度に下降し、弛張型を呈した。

(三)  被告の開業している診療所はいわゆる完全看護制を採つていなかつたので、義子の付添としては、当初は義子の同僚が交替で、同年七月二六日からは専門の家政婦がそれぞれあたつていたが、原告政夫も同年七月三〇日エフワン門真工場より義子が虫垂炎で入院しており永引くとの通知を受け、翌三一日被告の診療所へ赴き、家政婦とともに義子の看護にあたつた。原告政夫は祈祷師であり、義子がかなり重病で衰弱していたので、当時も義子の体に手を置き、腹部をさすつたりして祈祷をしたが、これは被告のような西洋医学をおさめた医師の立場からすると、むしろ反治療行為であり、よつて、原告政夫は被告から「絶対安静にしないといけない」旨厳しく注意されたことがあり、また、義子の排膿管から流れ出た膿汁のため布団が幾分濡れていたので被告には無断で布団を取り替えたこともあつた。このようなことから、原告政夫と被告との間に感情のしこりができ、原告政夫は被告に不信を抱き、同年八月三日被告診療所の方角が悪いとの理由により、自らの意思で、被告の「絶対安静が大事である」旨の注意も聞かず、義子を野川病院に転入院させた。

(四)  野川徳二医師は同日さつそく義子を診察したところ、義子の右下腹部に被告の行なつた手術創があり、創口吻開して糞便が出ており、栄養状態も悪く、とこずれも認められ、穿孔性汎発性腹膜炎および腸瘻と診断し、当時の状態が切開手術に適しなかつたので、その後引続き抗生物質の投与と栄養補給、輸血等の措置を続け、病状の改善を待つた。その結果幾分義子の栄養状態が回復し、全身状態も良くなつたが、腹腔内の病勢自体については、野川病院では開腹していないので内部所見は不明であるが、同病院入院中は開腹再手術に適しない状態(例えば、白血球数は同年八月三日の採血血液において一〇、七〇〇、八月二二日が一六、五〇〇、体温は八月三日が38.2度、八月二二日が37.2度、脈膊は八月三日、二二日の両日とも一〇五であつた)で、汎発性腐敗性化膿性腹膜炎が抗生物質投与ならびに栄養補給を主体とする治療下に一進一退して慢性化もしくは多所性膿瘍形成の状態を呈していた。

(五)  ところで、野川徳二医師は同年八月二〇日胆石症のため関西医大病院に入院することになり、義子は同月三〇日野川医師の紹介で関西医大病院に転入院した。同病院の武田惇医師は同日義子を診察したところ、栄養状態不良で脱水状態があり、白血球数は九、四〇〇で中等程度の増加、赤血球は三八一万で貧血という一般状態で、右下腹部(回盲部)には長径約五センチメートル、短径約三センチメートルほどの被告のした手術創跡と思われる肉芽創があり、その内に糞瘻ができていて糞便を伴なう膿汁を相当多量に排出し、創縁に膿苔を付着しており、当時急性腹膜炎の所見は既になく、腹腔内の膿汁貯溜、膿瘍形成(弛張熱型を示す)が考えられたので、一応「糞瘻」と診断したが、当時の時点でもなお切開手術に適していなかつたので局所の排膿および抗生物質投与による膿瘍縮少ならびに栄養状態の回復を図つた。しかし、義子の症状はその後一進一退の状態で、白血球数にも増減不定の変化があり(例えば同年九月二一日は五、四〇〇で正常であるのに同月二七日は一三、一五〇に増加した)、血清総蛋白量および電解質の減少等の所見もみられたので、武田医師はこのままでは全身衰弱を増すのみであると考え、同年一〇月六日腸瘻形成部における腸内容通過を制止する目的で、開腹し、回腸横行結腸吻合術を施行するとともに排膿管設置を行なつたが、その際の腹腔内所見としては盲腸部の癒着、同周囲の膿瘍をみ、虫垂の所在は不明で腸管全面の剥離困難な癒着があり、腹腔内に多量膿汁の貯溜があつた。しかし、右術後も、義子の病状は好転せず、同年一〇月一二日糞瘻により死亡した。

(六)  義子は日頃からあまり丈夫でなく、やせていて弱々しい感じであり、幼時結核にかかり、八、九才頃から中学一年生の九月まで三田療養所および鴨島療養所でそれぞれ約二年間結核の治療を受けており、抗生物質に対する耐性がかなり強く、本件治療に際して投与された抗生物質もあまり効き目がなかつたものと推測される。

(七)  なお、被告は昭和一五年七月医師資格を得、軍医、京都府立医大における研究等を経て昭和三〇年から開業し、大体外科を専門に診療活動をしており、虫垂炎の手術は数多く手がけ、本件のような糞瘻の事例も三件扱つた(そのうち最後まで治療に当つた二例は治癒した)ことがあり、その間医学的知識診断治療の技術につき特に失敗した経験はない。

以上の事実が認められ、右認定に反する原告石井政夫本人尋問の結果は前掲各証拠に照らし採用せず、他に右認定事実を左右するに足る証拠はない。

三、そこで、以上の事実関係に鑑定人松倉豊治の鑑定結果を照らし、被告の本件医療行為の違法性もしくは過失の存拍について検討するに、

(1)(本件疾患の態様)義子の病気は、要するに、不幸にも、たちのよくない急性化膿性虫垂炎または場合によつては壊疽性虫垂炎として発病したもので、当初の病状進展経過が早く、かつ、感染菌の毒力(抗生物質に対する抵抗)も強く、これに、義子が基本的に抵抗の弱い虚弱体質であつたことも加わり、腸瘻形成、汎発性腐敗化膿性腹膜炎となり、最終的な応急手術も功を奏さず、ついに死亡するに至つたもので、これを被告の初診当時(七月二四日午前一〇時頃)の段階でみても、すでに義子の局部は穿孔して周囲に膿瘍を形成し、限局性腹膜炎があつて膿性内容を蔵していたことが明らかである。(2)(被告の医師としての治療処置)しかして、被告は、前記のとおり、初見後、直ちに少くとも虫垂炎であると診断し、約二時間後には開腹術を行なつたが、すでに病状が右のように悪化していたので、虫垂の摘出は無理と判断し、排膿管による膿汁排除、局所の病状減退待期の措置をとり、その間、抗生物質療法と栄養分補給に努め、なお、はかばかしくないので、二八日午後七時再び開腹術を行い、新らたな膿瘍形成部に排膿管を設置し、その後、義子の保護者父原告政夫が、被告の安静のすすめをきかず、自らの意思で退院転医する(八月三日)までの間、引き続き前同様の治療をして待期したものであり、(3)(当裁判所の判断)以上の被告の診断並びに治療処置は、現在の外科学の通説に合致し、かつ外科治療の実際に適したものと認められ、その間に手術手技上の過誤も見出せず、たとえ、医師一般にその職務の特質上高度の注意義務を負わせるとしても、本件の場合は、特段被告に対し過失をもつて問責すべき点はついに見出し難い。

結局、被告のした本件医療行為中には原告らの主張するような違法性もしくは過失はないといわなければならない。

四、よつて、原告らの請求はその余の判断をするまでもなく失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(畑郁夫 葛原忠知 横田勝年)

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